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2007年5月 9日 (水)

映画『バベル』について

言葉を乱して、世界をバラバラにしよう…(旧約聖書)

バベルの塔は神の怒りに触れて崩壊した…。


映画『バベル』は、モロッコ、アメリカ/メキシコ、日本を舞台に、言葉も思想も違う国々で、ある事件をめぐってほぼ同時進行的にストーリーが進んでいく。

しかも、その国々が抱える顕在化した問題が罪のない子どもたちの命を危ぶんでいくのだ…。

映画『バベル』のキーワードは“被害者は子どもたち”

命を失うモロッコ、砂漠で衰弱するアメリカ、親を信用できない日本。

そうなると、バベルの主役は大人ではない。
モロッコの兄弟であり、アメリカの兄妹であり、そして菊地凛子演じるチエコ。

言い換えると、
なぜ、兄のほうが死んだのか?
なぜ、砂漠の真ん中で放り出されなければならないのか?
なぜ、心にキズをつくり、そのキズを埋められないでいるのか?

つまり、神によって言葉を乱された子どもたちの運命こそバベルの塔なのだ。

その主役たちの中でも、チエコはなぜ若い刑事の前で全裸になってしまったのか。
ここは考えさせられるところ。

オイラはこのシーンでのチエコの心情を想像してみたんだけど、イマイチよくわからない。
そこでオイラは若い刑事の立場になって想像してみると、
『あぁ…、オレはあの子にからかわれていたんだなぁ…。』と、あの手紙を読みながら酒を煽る。

これはオイラの直感。

だって、チエコはいつでもヘルプの信号を送っている。誰かにすがりつきたいし、誰かに想いを伝えたい。
その反面、同年代の男子にノーパン姿を見せて反応を楽しんだりもする。

若い刑事にも同じだったんじゃないのかなぁ?
オイラはそんな風に感じた。

もちろん、あの手紙の内容がわからないのでそう想像するんであって、真実はあの手紙のなかにある。

それと最後のシーンだけど、チエコと父親が住んでいたのが東京の摩天楼、超高層マンションだった。

あれこそバベルの塔を想像させる映像ではないか…?

イニャリトゥ監督がなぜ東京で『バベル』をエンディングさせたのか。

これもオイラのカッテな想像だけど、
バベルの塔の建立中は人々の言葉が統一されていて、さらに思想も共有されていた平和な時代だった。

今となっては言葉はバラバラでも、同じ想いや願いをもつことは出来るんじゃないのか。
今だったら人々はわかり合えるんじゃないのか。

そして新たなバベルの塔を世界のどこかで建てるとしたら、日本なんだ。
そんな希望を表現するために監督は東京をエンディングに選んだ。

オイラはそう思うし、そうであってほしい。

結論、『バベル』は日本に救いを求め、希望を託した映画なのだ!

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